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コラム「異見と意見」COLUMN

思い出と夢、それは私の生きがいの源泉

生まれて18年間を育ててくれた故郷大分を後にして、横浜で社会人としてのスタートを切って以来既に半世紀が過ぎた。生まれてからでは今年で70年になる。この新しい年の始めに当って、これまでの自分の人生とその生き方を振り返ってみた。

大分県大野郡犬飼町大字下津尾字眞萱、総戸数24戸の集落、貧しい山村の農家、10人兄弟姉妹の下から2番目、3男坊として生まれ育った。寒い冬でも防寒着や靴などを買って貰える訳でもなく、「子供は風の子」などと言って素足に草履で駆け回って遊び育った子供時代。いつも縁側の日向に座って、足袋の繕いなどの裁縫をしていた祖母。花つくりとお寺参りが日課だった祖父。沢山の子育てに大変なはずなのに太っ腹でおおらかだった母親。いつも社会に目を向け、他人のことを心配しながら、地域の農業技術指導に飛び回っていた父親。よくラジオ歌謡などを歌っていた姉達。食べる米が無ければ隣近所で助け合い、子供達は皆分け隔てなく地域社会が見守り、地域のみんなに育てられたようなものだった。現在と違い皆貧しかったが、社会全体に人間的暖かさがあり、貧しくても決して不幸ではなかったと記憶に残っている。

小学校新入生になっても学生服は勿論カバンさえも買って貰えなかった。授業時間が終った途端元気になる「ガキ大将とその子分」達の言うことを聞かない為に度々いじめられたが、屈することも苦にすることも無かった小学校時代。高校受験勉強時期になり、あの「ガキ大将一味」が素直に頭を下げて教わりに来るので、喜んでお手伝することでいじめの仕返しが出来たと内心うれしかった中学校時代。貧しさ故に普通高校を経ての大学進学を諦め、就職への近道として工業高校を選び、片道2時間の通学をした高校時代。

人生70年の内のわずか18年間を過ごしたに過ぎない大分そして犬飼町だが、半世紀以上過ぎた今、豊後大野市犬飼町と表示は変ったものの、田畑も、野山も川も、その眺めも当時のままで、生まれ育った当時をいつも懐かしく思い出させてくれる心のふるさとである。

就職では、勉強の機会を求めて都会に出ることを決心した。しかし田舎育ちの私にはアスファルトジャングルやネオンの輝きなどに憧れた訳ではなく、大都会の近くにありながら稲穂が茂る田んぼに囲まれ、東海道五十三次の松並木もある自然豊かな横浜市戸塚区の日立製作所戸塚工場を選んで入社し、社会人としてのスタートを切った。しかし3世代同居、多数の兄弟姉妹というにぎやかな大家族の中で育ち、一度として親元を離れた生活経験のない私には、初めての寮生活は淋しく、工場のトイレの窓から、当時大分方面へのたった一本の急行列車高千穂号が東海道線を走るのを見て、ふるさとを想い、幾度と無く涙を流したものであった。

一方で、一旦故郷を離れて出て来たからには、負け犬のように故郷に逃げ帰る訳には行かないという思いも強く、「反省はしても後悔はするな」と心に決めて、国内に前例はなく自分にも全く知識のないコンピュータ開発という業務に、悪戦苦闘しながらただ無我夢中で取り組んだ。そんな中で日立が社内教育制度の一環として開校した工業高専で、給料からボーナスまで頂きながら仕事はせず、大学学生並みの教育を受ける幸運を得て、中学時代に一旦夢見て諦めたあの大学で学ぶことも実現した。

学業を終えて職場復帰後のある時、世界的な不況の中で倒産寸前に追い込まれた、売り上げ高で日立依存率の高い取引先中小ベンチャー企業からの要請を受けて経営支援に出向した。悪戦苦闘の末6年間で好転すると、今度は言葉も分からず知人も居ない異文化の国アメリカへ、知識も経験も全く無い会社つくりの為に単身渡米することになった。当然のことながらここでも悪戦苦闘し、やっと軌道に乗った6年後に、またもや知識も経験も全く無いソフトウェア会社(株)日本コンピュータ開発に、ガンで急逝した初代社長の後任として入社することになった。私を知る日立入社同期生や職場での友人知人からは「君はいつも運が悪く苦労の連続」と同情されることも度々。それほどに私のビジネス人生50年間は常に悪戦苦闘、挑戦の連続であった。しかし一度として自信が有ってやったことは無く、自分に能力が有ったとも思わない。ただ運命に従って、与えられた課題難題から逃げる術を知らず、真正面から夢中に取組み、その時々に出来ることを精一杯やって来た。その結果として成果が後からついて来て、今の自分があると思う。その挑戦の勇気と力を与え、支えてくれたのは、私を育ててくれたあの故郷大分とそこに住む人々、竹馬の友や恩師、社会に出てからはビジネスを通じて接した上司、緒先輩後輩、友人知人達、そして我が家族である。それぞれの時代の苦労や喜び、その思い出を共有できる人達、そして我が家族は、私にとって皆貴重な人生の宝である。

最近の私は、積極的にこれらの人達に会う機会を作るように努めている。そんな昨年末のある日、小学校3、4年のクラス担任をして頂いた恩師の住所を探し出し、実に59年ぶりに故郷大分で再会した。81歳の年老いた恩師の口からの第一声は「間に合って良かった!」。その手には今から6年ほど前に偶然地域の新聞に掲載された私の記事と写真の切抜きが握られていた。感激、感動の時であった。生きていることは、人生はすばらしい。

私は思い出の一つ一つ、出会った人の一人一人を大切にしたいと思い、その様にして生きて来た。今でも個人的な年賀状を180通前後も交換している。それらは自分の足跡であり、生きた証でもある。しかしただ思い出に浸るのみで生きて居たいとは思わない。思い出を大切にしながらも、その一方で常に夢を持ち、その夢を追いかけながらも食い散らかしにするのではなく、その一つ一つに「出来ることを出来る時に精一杯」というこれまでの生き方で、誠実に取組み、挑戦し、行動しながら生きて行きたいと思う。夢はその実現に汗をかくほど、苦労が多い程、良い思い出になって心に残る。その思い出の一つ一つを大切にしたいと思う。思い出と夢、これこそが私の生きる力、生きがいの源泉である。

(2009.07.31 記)

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