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コラム「異見と意見」COLUMN

誰にも生まれつきの能力がある。それをいかに伸ばすか?

将棋の羽生善治棋士は、この世界で天才と呼ばれて居る。25歳にして前人未踏の将棋界の7タイトルを総なめした実績から、そう呼ばれるにふさわしい人だと思う。その羽生棋士が“能力とは、努力を継続する能力”と言っている。私はこの考え方に全く同感である。

人間は誰にでも生まれつきの能力がある。しかしそのままの能力だけでは生きて行く上には不十分で、その成長過程で常に磨きをかけ、さらに新たな能力を加える努力を続けることが大切である。生きてさえ居れば生まれつきの能力が磨かれ、新たな能力が自然に身につくものではない。自らの意思で常に努力をすることで初めて生まれつきの能力は磨かれ、育ち、さらに新たな能力も身につくものだと思う。つまり人間の能力の有無は、決して生まれつきの初期的な能力だけで決まるのではなく、成長過程で自らの継続的な努力によって磨き、伸す事によって決まるものだと思う。この努力を一時的なものとして途中で中止すれば、その時点から能力の伸びが止まるだけでなく、衰退が始まるとさえ言える。その為、努力を継続する能力を身に付けることが大切である。努力を継続する能力、それは他人に無関係に本人の意思だけで決まる。

私達の成長過程を考えてみると、先ずは家庭教育を受け、続いて学校教育を授け、最後に社会に出て社会教育を受ける。その教育には2つの側面があると私は考えている。それは1.「教、Teaching」と2.「育、Educating」である。

1.は新たに教えられ、教ったことを受け止め、身に付けることであり、2.は育てられ、自らも育つこと、つまり生まれつきの能力や特長を引き出し、引き伸ばす一方で新たな能力を身につけることである。

しかしながら残念なことに、最近では家庭内での親子間の会話不足、接触不足からか、子供達の体格は良くなっているにも拘らず、精神的、理性的には年齢相当の成長をしていない例が多く、また体力的なたくましさも身についていない。つまり家庭教育での「教、Teaching」も「育、Educating」も十分行われていない傾向がある。それに続く学校教育はといえば、いまや進学や就職の為の、知識の詰め込みという「教、Teaching」に偏り「育、Educating」が忘れられている。つまり一方的に知識詰め込み教育を行う、あるいは授けるだけで、人それぞれが生まれつき身に付けている能力や特長を見い出し、それを引き出し、育てようという行為はほとんど行われていないと言える。その結果義務教育は勿論のこと、大学教育を終えた学生達でも、知識や我がままはあっても自己主張が無く、常に誰かに教わることばかりを考え、自ら学ぶ、あるいは生まれつきの能力や特長を見つけ、自らの意思でそれを伸ばす、育成するという努力の必要性に全く気付いていない。

生まれつきの能力を引き出し、育成するには、何が必要なのだろうか?その基本は、「育てる側の者は育つ者に対して答えを教えることではなく、目指すべき方向を示し、テーマを与え、さらに育つための環境あるいは場を提供すること」である。一方で「育つ側の者は、自ら問題に立ち向かい、安易に答えを求めたり、指示通りに手足を動かすだけではなく、先ずは物事に疑問を持ち、問いかけを忘れず、自ら考え、探求し、答えを探し、そこに複数の答えがあればその中から適切な答えを自らの意思で選択し、答が無ければ答えを創造すること」である。その結果得られる答が例え他と違っても、それが独自の答えであり、個性であり、時には新しい発見である。そういう努力の継続が能力を伸ばし育てると言える。

新卒採用に拘る当社は、可能な限り「教、Teaching」をせず、生まれつき身について居る自分の能力を自ら育てられるように、また経験を積み重ねるほど能力を伸ばすことが出来るように、失敗も覚悟した上で、社員に対して挑戦の機会、場を、可能な限り多く提供するように努めている。社員はその機会、場を活用して、生まれつき備わっている能力を自ら磨き、伸ばすと共に、日々の経験の中から、さらに新しい能力を身につける事の大切さを認識し、常にその努力をして欲しいと思う。

誰にでも生まれつきの能力がある。しかし人生の能力は生まれつきの能力だけ、そのままでは決まらない。それを伸ばし、さらに経験の中から拡大する努力を、たゆまず続けることで身につくものである。

(2008.08.08 記)

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