コラム「異見と意見」COLUMN
不足、欠陥こそ良き教材
私はかつて、当社の社内報に“人間皆障害者”という記事を書いたことがある。目に見える欠点、欠陥があると、“自分は障害者だ”と自分を人間として劣るものと思い込んでしまう人がいる。社会全体にもそういう傾向がある。
一方、自分にも欠点、欠陥があるのに、日常的にその事が表面に出ないというだけで、“自分は健常者、欠陥の見える人は障害者”と差別してしまう人もいる。人間は人間である限り完全ということはなく、誰にでも必ずどこかに欠点、欠陥、弱点がある。神様ではない。その意味では“人間皆障害者”だ。
私はかつて肢体不自由な、“いわゆる身体障害者”を積極的に採用し、一緒に働いたことがある。“いわゆる健常者”といわれる人達に、“できれば休みたい、働きたくない”という人が多い中で、彼らは、朝早くから出勤し、定時間後も残って勉強会をし、休日にも出勤したがるのには驚いた。
日常的機能の一部に欠陥があるというだけで、容易に就職できない社会の中で、“この会社には自分の働く場所があり、自分の働きで製品が出来、それを買ってくれる人がいる” という喜びが励みになっていた。その時にはもう自分の欠陥など気にしていない。残っている機能を精一杯活用することに全力で取り組んでいた。そんな姿を見ていると、私も自分の出来ることを通して、精一杯の支援をしたくなった。
長くて厳しい不況の中で、リストラという名の下に失業した人が多い。その中でも中高年の人達の中には、自信を失い、精神面での病気になったり、ホームレスになったり、あるいは自殺する人などが多くなったと聞く。そういう苦痛を乗り越えて来た人達が、自分の体験から学んだ事をインターネットを通じて公開し、まだ悩んでいる人達を含めて、お互いに励まし合おうという動きがある。
最近その内の一人からアドバイスを頼まれた。私も61年の人生の中でいろいろな体験をして来たが、その人ほどに追いつめられた苦労をしたとは思わない。だから役立つアドバイスができるとは思わないが、意見はある。
私達は戦後の荒廃から立上がるため、豊かな西欧に追いつくため、全力で走り続けて来た。そして幼稚園から定年まで、常に他人との比較、競争を当り前の事として生きて来た。だから、今も他人との競争の中に生きていないと、自分を落後者のように思ってしまう。しかしその豊かさは既に十分達成されている。
もう他人との比較、競争は止めようではないか。自分を取り戻そう。誰にでも良い点がある。自分の良い点、言いかえれば、自分の出来る事を、出来る時に、精一杯やるだけで良いではないか。他人との比較ではなく、自分が納得出来るのか、自分の全力を出しているかどうかにこだわった方がよい。自分の能力を発揮することができるのは自分だけだ。
最近、青少年による凶悪事件が多い。満たされるのが当り前の社会で育ったため、自分が恵まれている事には全く気付かず、少しでも満たされない事があると、それが不満になり、泣きわめいているように感じられる。いつも満たされている人は、いつも不足な人より気の毒だと思う。いつも満たされている人には、一寸した不足でも不満の元となるが、いつも不足な人には、少しの満足にも喜び、感動できる。人間はいつも満たされていると、努力や生きる目標を失い、その事自体がストレスとなってしまうようだ。
私は、会社運営でも顧客には満足を、内部運営には、ある程度の不満足があったほうが良いと考えている。私はこれを腹八分経営、あるいは70%経営といっている。そもそも人間の行うこと、人間が作った組織、制度に完全などあり得ない。100点をとるには120%のエネルギーが必要。整備のし過ぎは無駄が多いばかりでなく、不足を感ずる機会をもなくしてしまう。全体的な合格点がとれればそれで良い。30%位の欠点、不備故の不満やトラブルは有った方がよい。その不満やトラブルへ誠意を持って取組み、解決するための工夫や、努力が社員をたくましく育てると思う。
人間に餌付された野生動物は、二度と自分で餌をとる野生には返れないという。時には食いはぐれる事があっても、自分で餌をとる能力を失わせてはならない。欠点、欠陥そして、そこから生じるトラブルこそが、人育てのための最良の教材だ。
(2000.07.27 記)